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それは例えばヘルツォークとクラウス・キンスキー。 『どつかれてアンダルシア』 に出てくる、ニノとブルーノ。 そいつの才能が自分の才能の為にどうしても必要で、だが人間としては殺してやりたい程憎悪する相手。 才能と人格は全くの別人で、だが絶対に分離できない。 愛憎相半ばするのではなく、全面的な憎と利己心によって敢えてそれ(相手)を選ぶ。そしてストレスは飽和を越え、憎しみは天井を突き抜ける。まったくの自業自得に。挙句、ヘルツォークは本気でキンスキーに殺し屋を差し向けようかと考え、『どつかれて~』 の二人は実際に殺しあう。多分その感情は “愛” などよりはるかに熾烈で無二のものだろう。 殺してやろうかと思いながらもなお欲しい才能に、掛け替えなんてない。 才能に惚れる事はとてもやっかいだ。無二のものを見つけてしまったら既に負けだ。 ヘルツォークがキンスキーに蛆虫扱いされながらも、自分の脳内を具現化する為に時に彼におもねり、衝突し続けたように。 ニノとブルーノがその高じた憎しみによって、文字通り “殺しあった”ように。 そもそも憎しみはそれほど永続するものではない。 例えば、私は子供の頃年の離れた兄に毎日のように殴られていた。本気で殺してやりたいと思った事も一度や二度ではない。だが大人になった今は正直、その事はほとんどどうでもいい。憎みきれない事もあるし、何より目の前にさえいなければ憎悪は薄れるものだから(自分から拘泥しなければ)。 憎悪は瞬間風速的な物で、それを同じ強さで保ち続けるのは相当なエネルギーがいる。まともな人間なら、憎んでいる相手からはとっとと離れるだろう(子供にはそれが出来ないのが悲劇だが)。 だが他人の才能を無二だと感じてしまった人間は、憎しみを自ら買って出る。折り合いをつけられる訳がない憎悪をわざわざ選び、それでも気が狂っても何かを手に入れる。 徹頭徹尾 己の為に、殺意に至るまで憎しみに身を晒し続ける。 ある意味、とてもあっぱれだ。常軌に捉われている程度の人間には、死んでもそんな事は出来ない。 願わくば、自分もそんな殺してやりたいほどの相手に出会ってみたいと思う。 もし本当に、実際に出会ったとしたら、間違いなくとっとと逃げるだろうけど。
by romeron
| 2005-03-16 01:28
| 映画
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