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3週間前に風邪をひいて仕事を休めなくて悪化、気管支炎になってから治る気配がないのはどうしたもんですか。 半月で健康ドリンク(高麗人参)に費やした金額、八千円。よくないのは分かっていても、微熱と咳で消耗が激しくて飲まないと立ってられない。そこから脱しても咳だけが続くし、こんなの10年振りくらい。今流行ってる風邪は何だろうなこれ、とてもしつこい。 もう医者の薬から漢方からビタミンから蜂(プロポリス、ローヤルゼリー)からハーブ(エキナセア)から。これ薬漬けと変わらないんじゃなかろうか、というか、止めたらリバウンドが来そう。でも休めない。 余分な栄養は全て削ぎ落として、晴耕雨読な生活でもしていれば、免疫力は一番上がるんだろうけど。身内の医療費とかあまたの現実がなければ、そういう暮らしをしたい。でも出来ない。 昨日藁にもすがる思いで意識して鼻呼吸(鼻で呼吸する事)にした所、すぐに咳が半減。びっくり。今まで私は完璧に口呼吸だった模様です。口呼吸は喉にとっては悪い事しかないので、朝起きると喉がカラカラになってる様な人は試す価値あり。 しかし治りかけても職場に行くと必ず悪化するのは何か、あすこは変なもんでも漂っているのか。エロハゲジジィの加齢臭か。 先月は母親が 『メガネが壊れた』 というので 『じゃあ母の日に買っちゃるから好きなの選んでいいよ』 といった所、私は5~6万の物を想定していたんだが、ババァがすかさず買ってきたのはなんと14万の代物。 『テメェはどこのマダムだ、マダムきどりかァ身の程を知れぇえ!!』 『だって似合うんだから、しょうがないじゃない!!』 身内にアホがいると場合によっては進退窮まるので、アホに選択の余地を与えてはならないようです。アホのしわ寄せで今月は何にも買えないけどまぁいいか。そして最近パソコンから変な音がするっていうか、遠からず確実に壊れそう。そして自分の頭も壊れそう。まぁいいか。 自分一人だけなら、霞を喰って生きられそうな気もするけど。霞を喰ったとしても税金は納めねばならないという。 外離島という無人島で一人まっぱで暮らすおじさん(実在)に、やっぱり今でも憧れる。今日本に現存する人の中では一番、私の思う仙人に近い気がする。 そこに背を向けてどこへ向かおうか。 ここ1年くらい。出家しようかずっと考えていました。昔から 『仙人になりたい』 という願望があって、翻訳すると石徳林のような隠者になりたい、という意味で。 風餐水宿、利益も栄誉も何も求めず無功徳(功徳≒御利益、見返りを求めないこと)であろうとしたいのに、まるで出来ない。そうありたいのなら表現などする事自体間違っている訳で、ならどうしたものかと。くだくだと考えていました。 一休が大乗であり続け、俗塵の中に在り続けたその正味の意味を理解するのに一年ぐらいうろうろしていました。 『半僧半俗でも何でも構わない』 とは私がレイジに言わせた言葉ですが、本当にもうどこに在るかなどどうでもいいことだなと。 男尊女卑であった事は釈迦という人の玉に瑕ですが、女を断てば自分は汚れない、なんて(その過程を経る必要がある場合もあるにせよ)、責任転嫁と逃避の合わせ技が発端だったのは間違いないと思うのです。同様に、利益も栄誉も存在する場所の中でそれを求めずにいられる事にこそ意味があるのだと。そこに辿り着くのに随分と時間が掛かりました。 これからは出来る限りゲームを作る事に時間を使いたいと思いますが、出来れば一休についても書きたいです。これほど誤解が罷り通っている人もいないと思うので。 “アニメの一休さん”的なフィクショナルなイメージはともかく、テレビで特集などをされても必ず抜け落ちている部分。それは彼が徹頭徹尾、禅僧という生き物であったという事、そして偽悪とも言われるほどの毒気。 師兄・養叟に対する罵詈雑言クラスの批判は、ベクトルとしては泰葉の“金髪豚野郎発言”にさえ近い(6才から勉学に明け暮れた天才の文学性と泰葉とは一緒にはなりませんが)。過剰反応というのは自分の中に同じ要素があるからこそ起こるものだと、果たして分かっていたのかどうか。人間としては親鸞の方が百倍尊敬出来るといえる、この破格の天才について私は何かを書きたいのです。 先日メールをくれた方。瀬戸内寂聴は一休が蛇蝎のごとく嫌った養叟宗頤にこそ似ていると思います。僧侶でさえなければ何も問題のない人だと思いますが。私は 『栄誉は固辞すべき物』 という意識のない僧侶は僧侶だとは思えないので。まぁ一休自身、無功徳でも無漏の善でもないんですけども。 人間。 今すぐ死にたいアナタに捧げる三部作 の続き。別に続いてないか。 死にたくない時ゃこれを観よう(読もう)なアラカルト、6連発。 1. ぼくんち 2. 酒とバラの日々 3. フォロー・ミー 4. さくらの唄 5. マグノリア 6. 自虐の詩 順番は何が何でもこの順番で。でないと途中で死にたくなるかもしらん。 漫画と映画が混じっとるけど、とにかくこの順番で行ってみなされ。死にたくはない貴方のなけなしの気力、どうにかこうにか一本釣り。さあ、詳細だ。 1. 『ぼくんち』 何も諭さないし何も促さない。何も裁かないし何も否定しない。ただ這いつくばる事ものた打ち回る事も許容して、どこまでも優しい。醜くてみっともない自分をさえ笑ってくれる。 これ読んで 澱んだ頭を揺さぶられ、空っぽの腹に何かが生まれたら、後はとにかく笑っとけ。泥水啜ってそれでも笑え。死んでもいいから笑っとけ。 2. 『酒とバラの日々』 幸せに溺れて酒に溺れて絶望に溺れて。似たよな馬鹿 何度でも繰り返して(by Theピーズ)、もうどん底。どん底から這い上がれもしない。でもどん底で、それでもニュートラルであろうとするなら、あり得ないほど沢山の物が見える。絶望の中になければ、希望は見えない。ラストシーンに目を凝らせ。そしてなけなしの希望、腹かっさばいて引き摺り出せ。 3. 『フォロー・ミー』 恋愛(しか描かれてない)物と聞くだけで興味の失せる私が、唯一大好きな恋愛映画(『ゴーストワールド』は別格として)。 行き違いと孤独と再生が、これでもかというほど優しい目線で描かれる。優しくて優しすぎて悲しいくらい、優しい。「癒し」とは本来こういうものに使うべき言葉だったんじゃないのかと。じんわりと満たされたら、そのまま前へ向き直れ。 4. 『さくらの唄』 これは最後まで一気にどうぞ。でないと途中で死にたくなるかもしんない。 澱んで濁って腐ってみなければ見えない、まっさらな真実。最後のページ、たった一言のカタルシスに至るまでの軌道は、醜悪であるからこそ美しい。全てを許容出来れば、怖い物など何もない。さあ立ち上がれ。 5. 『マグノリア』 “4”が創痍まみれな頭には結構キッツイので、少し真ん中寄りへ。 のた打ち回っておかしな軌道を巡りめぐり、でも気付いたら正解にたどり着いている事もある。暗中に盲滅法足掻いて転んでまた立って、そしてまた倒れて。それでも這いつくばってでも前に進めば、いつかどっかにたどり着く。 ラスト、空から降ってくるカタルシスにただ素直にだだ濡れておけ。 6. 『自虐の詩』 最後。これも“4”同様、最後まで一気にどうぞ。 かなしいことは、取りも直さず可笑しいことだ。悲劇はすべて喜劇でもあり、同じ物を見て笑う人間と哀しむ人間とが必ずいる。笑いとは本質的にそういうものだ。そしてその両方を同時に出来るなら、これほど本当の事が見える瞬間はない。 目をおっぴろげ、可も不可もない有り体の人生に笑い泣け。そして泣き笑え。 死にたくないと、自覚があるなら大丈夫。 さあ、直視しろ少年。 作品を批評する時、人は何も生んでいない。あたかも何かを生み出したような気になるが、何も生んでいない。批評そのものが作品と言える言葉を生み出せる人もいるが、その他圧倒的多数、私達凡手にそんな才能は無い。 作品の批評とは、他人が生み出した物に寄生する事。痛みを伴わず、何も生まず、ただ人の表現を喰い散らかす事。それを寄生と自覚せず創造と錯覚するのなら、勘違いも甚だしい。 それは大手を振って自分に出来ない事を人に要求出来る、世にも稀なグラウンド。 生み出した事無しに生み出す姿勢を語り、育てた事無しに育てる姿勢を語る。身に付けたブランド物で自己価値が上がったと錯覚するように、批評する事で享受する自分と築いた者とを混同する。批評する事で、「自分は完璧な正解を知っている」という錯覚の万能感を持つ。何者でもない、ただの寄生虫である事を忘れて。 その傲慢さを自戒した先にある全幅の主観は、だがとても潔く、純一無雑だ。 もし作品から借り物でない自分にとっての真実を感受出来るなら、批評する作業に価値は生まれる。是非を問うのみでなく、真実である衝迫を表せるなら、寄生の先に何かが生まれる事もあるだろう。さもなければ、批評はただの寄生だ。 だがそんな真実はそう転がっているものではない。 だから、ただ生まず語りである事の傲慢さを忘れず、戴く事を。 昔の自分と同じ行動をとる人間、その思考回路はよく分かる。 何を誤っているのか、何を見ない振りをしているのか、何に激昂するのか。どこが未熟で、何に無自覚なのか。 その逆切れの仕方も、悲しくなるほど腑に落ちる。昔の自分を鏡に映したみたいに。 言葉が相手に伝わらない事に腹を立て、徒労を感じ、自分の言葉を否定したくはないから、言葉の存在そのものを否定する。 一言も言葉を発せずにジェスチャーだけで生きるのなら、否定する権利もあるかもしれない。でも言葉を使い、なお言葉を否定するのなら、それは自分の発言に責任を取りたくないだけだ。 誰であろうと、主観と客観の乖離は埋められない。 (少しでも埋めようと努力する事は出来る) 言葉で何もかもを伝えられるわけはなく、それでも他に「思考を伝える方法」がない以上、それを使わなければ人との関係は築けない。 言葉を否定するのは、パソコンやネットを否定するように、モノに責任転嫁する事と変わらない。 使いこなせないから、否定する。 誰も使いこなせてなんていない。 全てが伝わる、全てを理解される事なんてない。 言葉に夢を見すぎていたのは、昔の自分の方だ。 それでもなお得られる、言葉を介した一瞬の共鳴と確信。 一方通行の勘違いかもしれない。勘違いの“両思い” かもしれない。 嘘を言っているかもしれない。でまかせを言っているかもしれない。言葉を選べずに代わりの言葉を使ったのかもしれない。誰かの言葉を借りただけかもしれない。 確信が間違いだった事を知る時もある。 でも、言葉はただのツールだ。でも、こんなにも美しいツールは他には無いと思う。 定義する為の物であるのに、決して定義が出来ないもの。 計り知れないものを、否定するなんて不可能だ。 自分の怒りの理由と対峙する事がなければ、昔の自分を見る事はないのだと思った。 大工の源さんに平手打ちされた話を書いてて思い出した。 高校の時、電車の中で見知らぬおっさんにひっぱたかれた事がある。 確か高校演劇コンクールに出場する為、演劇部の部員達で会場に向かう電車の中だった。直前に台本に変更が入ったので、全員赤ペンを持って死に物狂いで台本を直していた(立った状態で)。と突然、電車がグラっと揺れた。 当時から平衡感覚が死んでいた私は、赤ペンを持った手ごとよろけ、前に立つオッサンの白いシャツに赤線を引いた。考える間もなくオッサンの手が飛んで、私の頬を平手打ちした。パシッという乾いた音が響いて、電車内の空気が凍り付いた。 「す、すいませんっ」 ととにかく謝るのだが、オッサンはなんか意味不明の事をブツブツブツブツ呟いていて、取り付くしまがない。なんかすごい怖かった。 結局、次の駅で「ったぁくよぅ…」とか言いながら、オッサンは降りていった。 降りていった途端に皆で 「はーっ」 と息をついた。 先輩が 「あれ、俺だったらあれじゃ済まなかったわ。女だからあれで済んだんだよ」と言った。そうかもしれないと思った。オッサン、クリーニング代払わなかったのはごめん。 でも人の顔は叩くなよ。 思うんだけど、世の中には二種類の人間がいる気がする。 脊髄反射で手が出る人間と、とりあえず考えてから動く人間。自分に置き換えてみると、どう考えても考える前に手が出る事はないと思う。 「(言い訳ではなく本当に)カッとなって人を刺してしまった」とかいう人は、脊髄反射で手が出てしまう方の人間な気がする。 私は呉越同舟フェチです。 なにせ呉と越が同舟してしまうのですからして、その辛抱堪らん度たるや天井知らずなのであります。 おいら的呉越同舟ランキング ブッチぎりの第一位は、「カリオストロの城」 におけるルパンと銭形のとっつぁん。もう辛抱堪らんね。 なにせルパンととっつぁんが手を組むのです。これぞ理想の呉越同舟、いわゆる一つの完成形、呉越同舟界のホームラン王です。 そして次点は 「海の闇、月の影」 の8~9巻、およびラスト近くにおける流水と流風のタッグ。感涙のラストに至るその同舟っぷりはとにかく見事。 双子であるのに対立しなければならない二人の根底にある、愛と憎と自分ではどうしようもないものへの怒り。そして、同舟。 にゃんとも子宮が疼きます。 そしてちょっと変種では、「処刑人」 におけるウィレム・デフォーの女装ガニパン特攻シーン。 厳密に言うと同舟ではないですが、それまでの敵・味方がある一点で一つの方向を向いて・・・というも、おいら的同舟セオリーを踏襲しており、非常に堪らん 呉越同舟に大切な三大要素、それは 「緊急(異常)事態」 「共通の敵」 そして 「愛」 であります。 本人達がどんなに否定しようとも、根底にお互いへの敬意に近い愛がなければ呉越同舟は台無しです。 「たまたま同じ舟に乗っちゃったんだわ」 そんなものは呉越同舟だとはあたしゃ認めません。本来の意味? そんなもん知ったこっちゃありません。 私の夢は高校の頃から変わらず、「仙人になりたい」 「いつの日か呉越同舟してみたい」 なのです。 我ながら、360度どこから見ても立派な馬鹿であります。 ![]() 私の初恋はアルセーヌ・ルパンでした。 「ルパンが好き」 と言うと、例外なく 「ルパン好き~。カリオストロの城が・・」 と。いや私も大好きですよ、孫の方も。だけど違うんだっつの。ルパンと言えばアルセーヌ・ルパンだっつの。「決して人は殺さない」がポリシーの、ジェントルメンなんだっつの。 思えば小学3年の頃に彼と出会い、私のオヤジ好きの原型が作られた訳です。 彼を偏愛する余り、私はホームズがクソが付く程嫌いでした。そう、「ルパン対ホームズ」です。なんか色気が無いんだよ、あの屁理屈ヤク中男。にほいたつ男の色気ナッシング、ピーター・カッシング。大体あいつ・・・(以下自主規制)。 とか記憶で悪態吐くのもなんなんで、家にあった 「名探偵の危機」 を読み返してみました。うん、普通に面白かった。やっぱ色気は感じないけど。 ともかく自分が 「反体制」 「ダークサイド」 「アンチヒーロー」 偏愛なのが幼少時からなのはよく分かりました。 それはさておき、コナン・ドイルの晩年の崩れっぷりはかなり好きです。 “コティングリー妖精事件”でトリック写真にまんまと騙され、面目丸潰れ(本人死後だったのがせめてもの救い)。 こういう所は非常に愛おしく感じます。凋落に愛を感じる壊れた精神活動も、小学生の頃から相変わらず。 話を戻して、ルパンの話。 彼の何に惚れたのかと言えば、そのノーブル、スマート、かつセクシーな生き様。私の中では紳士と言えばルパン。ルパンと言えば紳士。紳士と言えば大人。 ・・・・大人になれば世界には紳士が沢山いる!と思っていた可愛い少女だったあの頃。どこ見渡したってそんな奴いやしねぇよコンチクショウ。 まぁ自分も淑女ではないので、世の中そんなもんだ。 そんな古きよき乙女時代、ルパンにハートを盗まれたの♥とベタにシメてみたり。 ・・ぁあっ物投げないで! ![]() 五嶋龍。 彼に 教えてあげたい と思っているのは私だけではないはずだ。別に冗談でなくて。まぁ教えて 「あげたい」 などというのは傲慢以外の何物でもなくて、要は教えたいのである。 彼の音楽に感じる官能と悦び。天才特有の纏まらない饒舌さと、背反しそうでしないバランス感覚。 全てが堪らなくそそる。 まぁ億万が一実際に会ったとしたら、存在に圧倒されてしまうだろうけれど。 生きていると 奇跡 を目の当たりにすることもたまにはある。 不埒な事を考えながら、そう思う。 ![]() 「自分らしさ」 と 「身勝手」 をまちがえる 「正直」 と 「無神経」 をまちがえる 全然違うのに似たところがあるとまちがえてしまう (吉村明美 「海よりも深く」) “個性”と、“人と違う事をする事” を間違えている人も多い。 “個性とは迫害されるものなんや” (「犬犬犬」作・花村萬月 / 漫画・さそうあきら) 名言だ。 脳内にある物を具現化したものが結果として“人と違う” のと、人と違う事をするのを第一義にする事が、同じ事なわけないだろ。 < 前のページ次のページ >
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